ケンおじさんの本棚 第2回 『人間失格』太宰治

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おじさんの本棚から紹介する2冊目は、太宰治人間失格です。



あまりにも有名すぎてこの作品を取り上げるのはためらわれたのですが、
ケン少年の思春期への影響度の大きさからどうしても選ばずにはいられませんでした。

第2回 『人間失格』 太宰治

おじさんの本棚から紹介する2冊目の作品は、太宰治人間失格です。

あまりにも有名過ぎてベタだな〜とも思うのですが、思春期のケン少年を形作った作品として、これはどうしても外せない一冊です。

中学後半でこの作品に出会ってから、高校3年間を通して、太宰にどっぷりハマることになります。

皆さんもよくご存知の内容かと思いますが、まずはあらすじから。

今回も、思い入れのある作品なので、ちょっと文字数が多くなるかもしれませんが、ご容赦ください。

あらすじ

はしがき

私はその男の写真を三葉、見たことがある。」 

という第三者の語りからこの物語は始まる。

一葉目の写真は、その男の幼年時代らしく、その子供が大勢の女の人に取り囲まれ庭園の池のほとりで笑っている写真である。

この語り手は、その子供の笑顔を醜いと言い「この子は少しも笑っていない」と看破する。

二葉目の写真は、高校か大学生くらい「おそろしく美貌の学生」に変貌した写真である。

しかし、これもまた「生きている人間の感じ」のしない「一から十まで造り物の感じ」のする不思議な美貌なのである。

そして、三葉目の写真に写っているのは、年齢もわからない白髪混じりの男。

この男はすでに笑ってもいない、表情自体が無いのだ。

しかも、「その顔自体が何の特徴もなく、全く印象に残らない。

これら三枚の写真は、どれも今までに見たことのない不思議な印象の男の写真だと語り手は言う。

この写真に写っている男こそが、この話の主人公である「大庭葉蔵」なのだが、
その半生がこの写真たちに対応する3つの手記という形をとりながら物語は展開されていく。

第一の手記

恥の多い生涯を送ってきました。」という有名な書き出しで始まる第一の手記

葉蔵は「自分には、人間の生活というものが、見当がつかないのです。」という。

空腹という感覚さえ持ち合わせず、人々が当然のように行っている日々の営みが理解できないというのだ。

自分の「幸福」の観念、「苦しみ」の性質が他人とは全く異なるものではないのかという不安と恐怖に苛まれる日々を送っている。

そこで、葉蔵が考え出した他者に対する「最後の求愛」の方法が「道化」だった。

他者に対して、いつも分かり合えない恐怖を抱いていた葉蔵はついに、

自分ひとりの懊悩は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。

『人間失格』 太宰治

と、道化の中に救いを求めていった。

道化で自身の身の周りに防壁を張り巡らせながら、葉蔵は大人たちの裏と表の顔を見ている。

周りのみんなが互いに欺きならが平然と日々を過ごしていることに気づいていく。

互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。

『人間失格』 太宰治

と、平然とあざむき合う人間がますます不可解なものと思われるようになる。

そして、この第一の手記は今後の彼の半生を予告する一言で締められる。

つまり、自分は、女性にとって、恋の秘密を守れる男であったというわけなのでした。

第二の手記

中学に進んだ葉蔵の「道化」の演技は「他所の人達」をその対象とすることで次第に洗練されていく。

自分の正体を完全に隠蔽」したのではないかと思い始めた矢先、もっとも意外に思われる相手に見破られてしまう。

クラスの中でも最も冴えない貧弱な「竹一」に、会心の演技を「ワザ。ワザ」と指摘される。

やがて、高等学校に進んだ葉蔵は、画塾で知り合った「堀木正雄」という画学生から、
タバコ質屋左翼思想を教えられる。

葉蔵はその堀木の中に「この世の人間の営みから完全に遊離してしまって」いる自分と同じ「匂い」を嗅ぎ取っていた。

堀木に「遊び」を教えられ、行き着いたカフェで出逢った女給に葉蔵は初めて好意を抱く。

人生に疲れ切ったその女給の「ツネ子」に同じ「侘しさ」を感じ取ったのだろう。

二人は、まるでそうなるべく決められていたように心中を選び、葉蔵は一人生き残ってしまう

第三の手記

ツネ子との心中で一人生き残ってしまった葉蔵は「自殺幇助」の罪に問われるが、起訴猶予処分になる。

父親の古い知り合いの家に身を寄せるが、後追い自殺を警戒されてほとんど幽閉のような日々を送ることになる。

その家にもいづらくなった彼は、置き手紙を残して逃げ出した。

またも、「雑誌社の女」、「バアのマダム」といった女性たちのもとを転々とする内、やっと安息感を得られる一人の娘の元に行き着く。

その娘ヨシ子と世帯を持ちしばらくは真っ当な暮らしを始めるが、出入りの小男の商人にヨシ子が目の前で犯されてしまう。

このことがきっかけで、葉蔵は次第に心のバランスを崩し、また酒に溺れる生活に戻っていく。

泥酔して帰宅したある日、砂糖水が飲みたくて開けた砂糖壺の中に睡眠薬を見つける。
それは、ヨシ子が自死するために用意したものだと察した。

とっさに、彼はその睡眠薬を全て飲み尽くしてしまうが、またも死ぬことはできなかった。

また酒浸りに日々に逆戻りするが、アルコールから逃れるためと自身に言い訳しながらモルヒネに手を出してしまう

完全に中毒患者になってしまった葉蔵は、まわりのものたちの手配で「脳病院」に入れられてしまう。

自分が狂人として扱われていることに気づき彼は、
人間、失格。 もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。」と言う。

そして、

いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ一さいは過ぎて行きます。

という境地に達するのである。

ケン少年(15歳?)の読後感

なぜ、当時中学生だったケン少年はこの『人間失格』にのめり込んだのでしょうか。

思春期の少年にとって、太宰の書くこの「葉蔵」と言う主人公は自身を投影する対象に映ってしまったのではないかと思います。

ケン少年は自身の幼少期と葉蔵のそれを重ね合わせて、そこにもう一人の自分を見たのです。

ケン少年も、自身と他者との関係性がうまく掴めず、自分が感じているこの感覚は他者にはどのように捉えられているのかうまく消化できないでいました。

どう話しかけようか?」、「この人は何でそんなに機嫌が悪いのだろう」、「自分は嫌われているのだろうか?

対人関係が不器用で、うまく立ち回れないので「悪ふざけ」をして周囲を笑わせることで場を和ませようとするけれども、本人はいつも薄氷を踏む思いでいたわけです。

葉蔵ほど、重症ではないにしても、少年期から思春期にかけてこのような思いを抱えている少年、少女は少なからずいるのではないでしょうか?

「葉蔵」という主人公に自身を投影して、「ここに私と同じ悩みを持った人がいる」と感じても不思議ではないと思います。

無反省にみんな同じ感覚でいるんだと素朴に信じられないということは、「絶対懐疑」にもつながるような「哲学すること」につながるのかもしれません。

そんな葉蔵の不器用さが、思春期のケン少年には我がことのように「愛しくて」仕方なかったんだと思います。

大人になった今になると、太宰治自身が問題の多い「ダメ人間」のようにも思えますが、それもひっくるめて彼の作品には読者を引き込む「魔力」があると思います。

文豪ストレイドッグスの太宰治はチャラくて、カッコいいですけどね(笑)。

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