おじさんの本棚 第24回『流浪の月』凪良ゆう

読書

おじさんの本棚から紹介する24冊目の本は、

凪良ゆうさんの『流浪の月』です。

2020年の本屋大賞受賞作で、最近映画化もされた話題作ですね。

最初にお父さんがいなくなって、次にお母さんもいなくなって、わたしの幸福な日々は終わりを告げた。すこしずつ心が死んでいくわたしに居場所をくれたのが文だった。それがどのような結末を迎えるかも知らないままに――。

Amazonあらすじより

世の中で、多くの人が認める「事実」が、必ずしも「真実」だとは限らない。

ここに居ていいんだ」と思える「場所」で、ひそかに暮らしていければそれで良い。

主人公の二人にそんな平穏な日々が訪れるのを祈りたくなる物語です。

あらすじ

主人公の「更紗」は、自由な考え方のお母さんと、優しいお父さんに愛されて幸せな日々を過ごしていました。

お母さんは既存の価値観にこだわらない人なので、更紗も常識にとらわれることなく、のびのびと育てられたのです。

しかし、そんな自由で幸せな日々に終わりがきます。

更紗は思いました。

我が世の春とは、あのことだった。
あの幸せは永遠に続くと、私は信じていた。

更紗の身に起きたこととは、

最初にお父さんが消え、次にお母さんが消え、私は伯母さんの家に引き取られることになった。

自由に育てられた更紗は、転校した小学校ではうきまくりました。

また、更紗にとっての「常識」は、伯母さんの家では「非常識」であることに気付かされます。

もちろん、伯母さんの家での「やり方」に合わせるしか、更紗の選択肢はありません。

そして、その家で誰にも相談できない「苦痛」を与えられるようになったのです。

すこしずつ心が死んでいく日々。

伯母さんの家に帰りたくなくて、公園のベンチで雨に濡れていた更紗を救ってくれたのが「」でした。

文は男子大学生。

文はいつも、少女たちが遊ぶ公園のベンチで、一人静かに本を読んでいました。

実は、それは「ただのポーズ」で、少女たちをじっと見ていることは気づかれています。

そんな文を、女の子たちは「ロリコン」と呼んでいました。

更紗もそんな「ロリコン」の男の人を最初は警戒していました。

家に帰りたくない更紗にとって、他の子が帰った公園のベンチでひとりで「赤毛のアン」を読むことが唯一の安らげる時間でした。

その間、公園に「ロリコン男」と二人きりになりますが、それよりも家に帰ることが嫌だったのです。

そうして、時間をつぶすうちに、とふたりきりで公園にいることに不安を感じなくなっていきました。

ある日、どうしても家に帰りたくなくて、雨が降り出してもベンチに座り続ける更紗に文は傘をさしてくれたのです。

男の人はビニール傘をわたしの頭の上に移動させた。

「うちにくる?」

その問いは、恵みの雨のようにわたしの上に降ってきた。頭のてっぺんから爪先まで、甘くて冷たいものに浸されていく。全身を覆っていた不快さが洗い流されていく。

「いく」

わたしは立ち上がり、自らの意思を示した。

『流浪の月』凪良ゆう

更紗は、文の部屋に「安心できる自分の居場所」を見つけました。

そこでは、両親と暮らしていた時のように、更紗が自分らしくいることができたのです。

文は本当は「少女性愛者」ではありませんでした。

ただ、彼自身辛い秘密を抱えているので、未熟なものに惹かれていたのかもしれません。

文の部屋で更紗は、夜ぐっすり眠れました。

伯母さんの家では、安心して眠ることもできなかったのに・・・。

しかし、世間の目から見たら、文がしたことは「少女誘拐」です。

「ロリコン」男が犯したおぞましい犯罪にしか見えないのです。

このことがその後の二人の運命を大きく変えてしまいます。

そんなことがあってから、15年後に再会した更紗と文。

ただ文のそばにいたいと願う、更紗の想いは世間の「良識」からは許されないことでした。

世間は過去の出来事を、「ロリコン」の異常者が、少女を誘拐しておかしなことをした罪で逮捕されたという「事実」として捉えています。

しかし、更紗は「事実」と「真実」は違うと言います。

「事実と真実は違う。世間が知っているつもりになっている文と、わたしが知ってる文はちがう。文は相手が嫌がることを無理強いする人じゃない。わたしは、それを、真実として知ってるの」

『流浪の月』凪良ゆう

そして二人にはお互いが必要なのです。

それは、「世間」が考える既成の関係を超えた、新たな人間関係への、とても困難な旅立ちでした。

読後感

私たちはともすると、自分にとって「わかりやすいストーリー」を、「事実」と思いたいのかもしれません。

「世の中の多数派の意見がそうだから」とか。

「自分の経験上、これはそういうことだろう」とか。

物事を理解し解釈する際も何らかのバイアスがかかった視線で見ているのだと思います。

そして自分が「多数派の側」にいて、こちらに「正義」があると思うとき、簡単に他者を責める側に回ってはいないでしょうか。

この物語を読んで私が怖いと感じたのは、そんなふうにみんなで他者を攻撃することに酔ってしまう危険性です。

更紗と文がどんな気持ちで、一緒に過ごしたか。

それがどれほど、更紗にとって救いだったのか。

そんなことは何一つ知らずに、よくある「少女誘拐」のストーリーに当てはめて、知ったような気になってしまう。

そしてSNSで勝手に正義ヅラして、彼らを攻撃することで自分の憂さ晴らしをしていることに気づくこともありません。

そんな愚かな集団に、私自身も加わってしまっていないだろうか?

それは、とても恐ろしいことだと思うのです。

他者を攻撃することで、相対的に自分が優位に立ったように思えたとしても、それはただ虚しいだけです。

日常に溶け込んだ「SNS」の危うさも再認識させられました。

そんな愚行の気配がしたら、冷静に一歩引いて考えようと、この物語を読んで思いました。

そして、読後に心から願ったことは、更紗と文がどこかで穏やかに暮らしていて欲しいということです。

未読の方は、ぜひ手に取ってみてください。

2022年5月13日公開の映画情報はこちら

DVDも発売されています。

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