おじさんの本棚 第27回 『百花』川村元気

おじさんの本棚

おじさんの本棚から紹介する27冊目の本は、

川村元気さんの『百花』です。

菅田将暉さんと原田美枝子さんの主演で映画化され、2022年9月に公開された作品ですね。

映画『百花』のオフィシャルサイトはこちらです🔽


認知症になり、次第に記憶を無くしていく母親と、その介護をする息子の心情を綴ったお話です。

「あなたは誰?」

徐々に息子の泉を忘れていく母と、母との思い出を蘇らせていく泉。

ふたりで生きてきた親子には、忘れることのできない“事件”があった。

泉は思い出す。かつて「母を一度、失った」ことを。

母の記憶が消えゆく中、泉は封印された過去に手を伸ばす──。

Amazon紹介文より

文春文庫の「映画化記念特別カバー」の裏表紙には、菅田将暉さんの「映画『百花』によせて」という一文があります。

そこから一部引用します。

誰もが通る、親子の、家族の、褪せていく記憶の世界。どうしようもない人間の性が溢れていて、原作小説を読みながら気づいたら泣いていました。

菅田将暉「映画『百花』によせて」より引用

そして、その特別カバー表紙の、

母が記憶を失うたびに、僕は思い出を取り戻していく」という言葉が、

読後にじわりと沁みてきました。

あらすじ

主人公の葛西泉は、30代後半レコード会社勤務の会社員です。

彼の母親の百合子は、今は息子と離れて一人で暮らしています。

泉が結婚し独立してからも、毎年大晦日から元日にかけては母の家で一緒に過ごすようにしていました。

年末の帰省ということもあるのですが、

百合子の誕生日が1月1日なので、二人でささやかなお祝いをすることが例年の習慣なのです。

その年の大晦日、泉が母の家に帰ってみると夕食を作って待っているはずの母の姿がありませんでした。

生臭い匂いが鼻をつく。母が夕食の支度をしているはずの台所は空っぽだった。蛍光灯をつけると、小ぶりなシンクには汚れた食器やグラスが積み重なっていた。ガスコンロの上には、白菜が残った鍋がそのまま置かれている。几帳面な母にしては珍しい。母はこまめに洗い物をする人だった。

泉は、何かが今までと違うような、違和感を覚えます。

母を探しに出た泉は、公園のブランコに腰掛けている母親を見つけました。

真冬の夜に、誰もいない公園のブランコで「美しい夢を見ているかのように」微笑んでいたのです。

「母さん、こんなところでなにしてるの?」と尋ねた息子に、百合子は

わたし……帰らなきゃ
「帰らなきゃいけないの」

と誰に言っているのかもわからないような返事を返しました。

二人で家に帰る途中、スーパーに買い物に寄りました。

支払いの時に百合子の財布に目がいくと、

大量のレシートと小銭でブランド物の財布はパンパンになっています。

息子の視線を感じた百合子は、

最近どうも計算できなくて、すぐお札を出しちゃうから小銭が増えて困っちゃう」と言います。

買い物を済ませて帰ると、食パンが既に2斤家にあるのに、さらに1斤買ってきたことがわかります。

母親の百合子は、あきらかに認知症が疑われる状態でした。

そして百合子は、とうとう万引き騒ぎを起こしてしまいます。

盗むつもりはなかったのに、気がついたら商品を鞄に入れてしまっていたというのです。

これをきっかけに専門医を受診した結果は、アルツハイマー型の認知症でした。

それから認知症の症状は次第に進行しいきます。

それでも、百合子は昔のことはよく覚えていて、泉がまだ子供だった頃の話をします。

泉自身も忘れていた思い出が、認知症の母の話で蘇っていきます。

けれど、そんな過去の記憶もやがて百合子の中から少しずつ消えていくのでした。

施設に入ることができた母の持ち物を整理していた泉は、その中に百合子の日記を見つけます。

そこに書かれていたのは、この親子の過去にあった「事件」の間の母の記録でした。

読後感

物語の一場面に、泉が担当したシンガーソングライターKOE人工知能研究者との対談動画のシーンがあります。

「人工知能を作るということは、人間を創造するということなんです」と語る人工知能研究者が、KOEの質問に答える。
「コンピューターにひたすら記憶させるんです。将棋の人工知能だったら過去の棋譜を片っ端から」
「ということは、人間は体じゃなくて記憶でできているということ?」

そして、KOEは、こう考えました。

「もしも人工知能に個性や才能を与えるとしたら」彼女は対談の最後にひとりごとの様に呟いた。
「何かの記憶を失わせればいいんでしょうね。例えば、赤の記憶、海の記憶、愛の記憶

人工知能には、「忘れる」という機能は今のところ想定されていないのかもしれません。

だとすれば、忘れるということは、人間らしいことだとも言えます。

認知症でなくても、人は生きていく中で多くのことを忘れていきます。

逆に言えば、忘れたい記憶だって少なからずあるはずです。

そして、私たちは多かれ少なかれ、加齢によって認知機能が低下していくことは避けられません。

私の母は、13年前に亡くなりましたが、晩年の数年は認知症が進行していきました。

漁師の網元の家に生まれた母は、元々気性の荒いところのある人でした。

認知症が進むと、そういった性格上の傾向が顕著になるのでしょうか?

息子の私にも、暴言を吐いたり、自分の思い通りにならないと激昂しました。

身の回りの世話にペルパーさんに来ていただいていましたが、

その方にも気の毒なくらいきつく当たることがあったようです。

息子として、実の母親が壊れていく様を見せられるのはかなりキツイです。

この物語の主人公の泉は、母親の病気の進行に戸惑いながらも、

自分の感情をよくコントロールしています。

そして、子供に戻っていくような母の言葉の中から、自身が幼かった頃の思い出を掬い上げていきました。

母が呟いた一つの望み「半分の花火が見たい」という言葉。

それは、親子が幸せだったひとときの思い出なのでした。

今まで生きてきた、さまざまな記憶が次第に失われていく時、

人はどんな思いがするのでしょうか?

そして、最後まで残るいくつかの記憶は、

幸せな思い出であってくれることを願います。





コメント

タイトルとURLをコピーしました