ケンおじさんの本棚 第1回 『野菊の墓』伊藤左千夫

nogiku's_grave 読書

ケンおじさんの本棚へようこそ!

プロフィールにも書きましたが、私の趣味の一つに「読書」があります。

私が今まで出会った本の中から、印象に残っているもの感動したものなどについて少しずつ紹介したいと思います。

なお、感想などはあくまで個人的なものですので、「ちょっと違うな〜」と思うことがあってもご了承ください。

第1回 『野菊の墓』 伊藤左千夫

おじさんの本棚から、第1回目に取り上げる1冊は、伊藤左千夫野菊の墓です。

これは、おじさんが中学1年の時に初めて自分で購入した文庫本(当時は新潮文庫)で、
その後、読書の「沼」に入り込むきっかけになった記念すべき本です。

あらすじ

「政夫」と「民子」に芽吹いた、小さな恋心

主人公の「政夫」は、地方の裕福な旧家の生まれで「中学」進学を控えた15歳。

家長的存在の政夫の母が病気がちであることから、政夫にとっていとこにあたる17歳の「民子」が住み込みで家事の手伝いをしていた。

二人は幼馴染でもあり、日頃から無邪気に仲良く遊んでいるのだが、年頃を迎える時期でもあり、周囲の大人たちは二人の仲についていろいろ噂を立てることになる。

もとより、やましい気持ちもない二人であり、恋心を意識するほどには成長していなかったのだが、周囲からの噂によって、二人の心に変化が起きてしまう。

二人の意識下で、静かに芽吹いていた恋心は次第に小さな「卵」として意識されていく。

政夫の母は、そんな二人に「政夫の読書の邪魔をしてはいけません」などど小言を言うが、本心では二人を微笑ましく見守っていた。

お互いの恋心を少しずつ意識し始めたことで、二人の関係はぎこちないものになっていく。

綿畑での幸福な一日

そんな中、二人は、家から山道を数時間歩いていく畑に綿を摘みに行く仕事を政夫の母から頼まれる

畑までの道中は二人きり、畑での作業も人目につくこともない。

久しぶりに他人の目を気にせずに、一緒に過ごせることが二人は楽しみで仕方がなかった。

この時の道中で政夫が民子に向けて言った
民さんは、野菊のような人だ」、「僕は野菊が大好きだ」と言う言葉は、この作品の象徴的な会話。


畑でのお弁当用に水を汲みに行った先で政夫は竜胆(りんどう)の花を摘み
民子はそれを欲しいと言う。

民子はその竜胆の花の香りを嗅ぐような仕草で
わたし急にりんどうが好きになった」、「政夫さんはりんどうのような人だ」と返す。

直接的なことばで気持ちを伝えることさえできないけれど、「野菊」と「竜胆」の花に例えることで、二人はお互いを「大好きだ」という気持ちを確認しあった。

けれども、幸せな時間ほどあっという間に過ぎてしまう。
人目を気にせず二人きりで過ごす時間は幸せすぎて、つい帰りの時間のことを疎かにしてしまった

その日、二人が家に帰り着いたときは、すでに日が暮れて、座敷では大人たちが集まって二人の心配をしていた。(人によっては二人のことを邪推していたのだろう)

二人のことを微笑ましく見守っていた政夫の母親も周りの意見に流されたのか、このままではいけないと考え始めた。


政夫が中学に上がるために家を出る日を早めることで、二人を離れさせることにした

この日、朝から日が暮れるまで、家に帰り着く前までは政夫と民子は今までで一番幸せな時を過ごした。

それがその夜に一転して、離れ離れに暮らすよう引き裂かれてしまった。

つぎに会う時までの約束を交わすほどの勇気を持つこともできず。二人は離れ離れになってしまう。

それが後々、周りの大人たちも後悔と悲しみの淵に沈むような、悲しい出来事のきっかけになってしまった。

これ以上は、ネタバレになるのでまだこの作品を読んだことのない方のために書くことは控えます。
是非一度、読んでみてください。

読後感

ケン少年(13歳)の感想

私(当時はケン少年)がこの作品で、読書に目覚めたのが中学1年(13歳)の時でした。

当時まだ、本当の恋も知らなかったケン少年はこの作品の何に惹かれたのでしょうか。

一番は政夫と民子が二人で綿摘みに行った日の出来事。

お互いに「野菊」と「竜胆」の花に託して気持ちを確認しあう場面で、
人を想うということは、なんと胸の内に温かいものが流れ込むようで、それでいて息苦しいような思いがするものだろうと感じました。

また、畑に向かう道で、人目を避けて先に家を出て銀杏の木の下で待つ政夫に、民子が追いついたところでの銀杏の描写。

綿畑でのお弁当のために水汲みに向かった先での情景描写。

帰り道、日が暮れてくる風景の描写。

そのそれぞれに、インサートされる民子の横顔や仕草の描写。
その全てが美しく、好きあう二人の幸せの象徴のように感じられたのです。

そして、その後訪れる「悲しい出来事」には、胸の奥にある何かがぎゅっと絞られるような痛みを感じました。

当時、ケン少年のクラスでは、グループメンバーが日々感じたことを交換日記のように一冊のノートで共有するということをしていました。

みんなが書いた内容は担任の先生も共有して、何かコメントしてくれたりする、言わば国語の自由課題のようなものです。

そのノートにケン少年は『野菊の墓』を読んで感じたことを書きました。

政夫と民子がお互い好き合う仲なのに、旧家の古い考え方や、周囲の邪推のせいで引き裂かれてしまったことになんとも言えない気持ちになった。特に政夫の母親があんな形で二人を離れ離れにしてしまわなければ、悲しい出来事は起こらなかったと思う。政夫の母親は世間体を気にするばかりに、若い二人の幸せを奪ってしまった本当にひどい人だ。

大体そのような内容を書いたと思います。

担任の先生のコメント

その時のクラス担任が国語の先生だったのですが、ケン少年の書いた内容にコメントをくれました。

ケンくんは、この小説を読んでとても感動したのですね。君くらいの年頃にこういう作品を読んで心動かされることはとても素敵なことです。それは大人になってから感じるものとは全然違うからです。

ところで、君は政夫のお母さんを本当にひどい人だと言うけれど、本当にそうなんだろうか?

人はともすると、物事を一面からしか見ずに分かったような気がするものです。
例えば、円柱形。
真横から見ると、長方形に見えます。だけど真上から見ると円形に見るよね。
でもどちらも円柱形です。

君はこの作品が気に入ったようだからもう一度お母さんの気持ちを考えながら読んでみたらどうだろう。


先生に言われるまでもなく、2度3度と読み返していたのですが
(次々に他の本に移る今と違って、それだけ気に入っていたのですね)、
政夫の母親が二人にお小言を言う時、これはどんな気持ちで言っていたのだろうと考えてみました。

母親にしても二人の幸せを考えてのことだったのですが、本当に二人にとっての幸せが何かに想いが至らなかったんだということがわかってきました。

悲劇が起こってしまった後、帰ってきた政夫に懺悔する母の気持ち。そこにはどれほどの後悔の気持ちがあったことでしょう。とても母親を責めることなどできないと思いました。

この作品の登場人物たちは、それぞれの価値観で正しいと思うことをしていただけで、誰も責められる人はいませんでした。

この作品に出会えたこと、ものごとの見方のヒントをくれた先生に感謝です。

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