おじさんの本棚から取り上げる8冊目の本は、森鴎外 『雁』です。
この本との出会いもちょっと変わっています。
さだまさしさんがまだ、「グレープ」というデュオで活動していた時に『無縁坂』という曲がありました。
その無縁坂という場所がこの森鴎外の『雁』という物語の舞台になっています。
グレープの『無縁坂』という曲は、何か不運を抱えている母のことを子供の視点で歌った曲です。
その歌詞に、
運がいいとか悪いとか、人は時々口にするけど
そういうことって確かにあると、あなたを見ててそう想う
忍、不忍無縁坂
かみしめるような、ささやかな僕の母の人生
グレープ 『無縁坂』
という部分があります。
「悲しさや、苦しさは、きっとあったはずなのに」それを内に仕舞い込んで僕を育ててくれた母を見守る「僕」の思いが伝わってくるように思います。
さて、森鴎外の『雁』の登場人物「お玉」も父のため、自分さえ我慢すればと不遇な人生を送っていました。
そんな「お玉」の心に芽生えた、一筋の希望と、その間で揺れ動く心の動きがなんとも言えずいじらしいのです。
あらすじ
物語は、僕が東京大学そばの「上条という下宿屋」に住んでいた頃、隣同士だった「岡田」という学生を主人公として語られる。
競漕の選手(ボート部?)だった岡田は、がっしりした体格の美男だった。
彼はその風貌だけではなく、規則正しい生活態度からも周りの人々に一目置かれる存在でいた。
岡田と僕との接点は同じ読書家ということで、本の貸し借りをする内に次第に親しくなっていく。
そんな岡田は古本屋巡りをしながらの散歩が日課のようになっていた。
ある日岡田は、その散歩の途中、無縁坂を降りかかったあたりの寂しげな家の前で湯上がりの女を目にする。
美しい女だったが、その時は特別な感情もなく過ぎてしまう。
二日程のち、岡田はその家の前を通りかかるとあの女のことを思い出した。
すると例の家の窓から、あの時の女がこちらを見て微笑んでいるのが見えた。
それからは、その家を通るたびに「窓の女」と目が合うようになり、やがて岡田は帽子をとって挨拶をするようになる。
その女というのが「お玉」である。
もともとお玉は、飴細工職人の父親と二人暮らしで静かに暮らしていた。
それを、見廻りで見染めた巡査が婿入りするということになり、お玉も、父親も気の進まないことではあったが断りきれずに一緒になる。
しかし、この巡査というのが実は妻子持ちであることがやがて明らかになる。
今ならば、間違いなく結婚詐欺なのだが、巡査にははなから世帯を持つ気などなかったようだ。
一方、巡査が婿入りする前にお玉を見染めていたもう一人に、末造という高利貸しが居た。
巡査との件が終わってしばらくして、末造はお玉を妾に欲しいと申し出る。
お玉は、妾の口など嫌がるが、父親のためと割り切り渋々承知した。
そして、末造がお玉のために借りて住まわせたのが無縁坂の家だったのだ。
一度目は妻子持ちの巡査に騙され、今度は妾の身になりお玉は諦めるしかなかった。
そんな折に、家の前をいつも通りかかる「がっしりとした体格の美男」である岡田に次第に心惹かれるようになっていく。
ある日、旦那の末造が所用で千葉に泊まりで出かけることになった。
その日の夜は、末造がお玉のところを訪れることはない。
そこで、お玉は一大決心をする。
たった一人の奉公人のお梅にも暇を出し、実家に帰した。
今夜はお玉一人きりなので、岡田が前を通り掛かったら家へ招き入れ思いを告げようと決心した。
岡田は、散歩の行きと帰りの2回通るはずなので、声をかける機会はきっとあると思った。
しかし、この日下宿の食事に「僕」の嫌いな煮魚が出たおかげで、僕は岡田を誘って散歩に同行することになる。
さらには、不忍池で「雁」を仕留めてしまったせいで、帰り道はそこで出会った「石原」も加わり3人で無縁坂を通ることになってしまう。
今日こそは何があっても声をかけようと決心していたお玉だったが、この状況では岡田を呼び止めることはできなかった。
ちょうどその時、岡田にはドイツ行きの話が決まっていた。
ドイツの教授の助手としての洋行だが、その準備もあるので明日には下宿を出るという。
お玉にとって、その日が岡田に思いを告げる最初で最後の機会だったというのに、
「煮魚」と「雁」という偶然のためにそれは永遠に叶わないものになってしまった。
ケン少年の読後感
この物語を読んだのは、冒頭の「グレープ」の曲と関連しているので中学生の時です。
途中、末蔵の視点で物語が展開するあたりは少し退屈だと感じていました。
しかし、お玉と岡田のエピソードの中で、揺れ動くお玉の心理描写がとてもいじらしく。
なんともじれったい気持ちがこちらにまで伝わってきて、「鴎外の描写は素晴らしい」と生意気にも思っていました。
一度は厚顔無恥な巡査に騙され、挙句に高利貸しの妾の身になり、お玉は普通の幸せを諦めていたように感じます。
そんな心理とは逆に、次第に色香をまとっていく女としての描写も読むものを虜にします。
そんなお玉が、こと岡田のこととなると少女のようなときめきを隠しきれず、岡田との出来事に一喜一憂するさまは、なんともいじらしく思えるのです。
そんな中訪れた、最初で最後のチャンス、なんとかお玉に思いをとげさせてあげたかったのに、
ほんのちょっとした偶然のために、それも叶わないものになってしまいました。
「運がいいとか悪いとか、人は時々口にするけど」
「そういうことって確かにあると、あなたを見ててそう想う」
冒頭の『無縁坂』の歌詞を、ケン少年は思い出さずにはいられませんでした。
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