おじさんの本棚から取り上げる9.5回目の物語は、
梶尾真治 『時尼に関する覚え書』です。
なぜ今回は「9.5回目」なのかというと、この物語は厳密にいうと「10冊目」ではないからです。
これは、第7回目で取り上げた『美亜に贈る真珠』の中に納められた短編の一つです。
本のタイトル作に劣ることのないSF短編の傑作だと思います。
3歳の少年が、ある日出会った初老の女性。
少年が大人になる過程で度々出会うその女性との関係を通して物語は展開します。
あらすじ
出会い
「私」が3歳のある初秋の夕暮れ時、初老の夫人に出会う。
私は、その夫人を素敵な人だと感じると同時に「運命られたものを本能的に感知」した。
そして、その女性は「ヤスヒトくん?」と知るはずのない私の名前を呼びかけたのだった。
しかし、私は初対面の自分の名前を彼女がなぜ知っているのか全く疑問に感じなかった。
やがて、彼女は自分の指から指輪をはずして、
「ヤスヒトくん。指輪をはめていないのね。じゃあ・・・・・・今がわたすときなのね」
と言って、その指輪を私の右の薬指にはめた。
すると不思議なことにリングはそれまでの大きさから、3歳の私の指のサイズに縮小しピッタリと指に馴染んだ。
彼女は、「ヤスヒトくんは、また私と会うことになるわ」と言い残して去っていった。
涙の溜まった瞳で、寂しげな微笑を残して。
”時尼”との再会
その言葉通り、私は小学2年生の時にその女性と再開した。
再開した彼女は何か印象が変わったような気がしたが、3歳の時に出会った女性で間違いないと感じた。
ただ、彼女は最初に出会った時よりも若くなっていたのだ。
彼女は私に「毎日自分におこったことや、興味のあったことを」日記に残すように伝える。
別れ際に私が彼女の名前を聞くと、
「じにぃっていうの。ときのあまって書くのよ」と教えてくれた。
「時尼」というのが彼女の名前だった。
「それからも”時尼”は、年に一度くらいのペースで、私の前に出現した」
それはいつも私が一人でいる時を見はからっているように。
そして”時尼”は会うたびごとに変化していた。
私が中学の時には、母親の年齢くらいに若返っていた。
17歳の思春期の頃には、30代半ばくらいの「大人の魅力を備えた」私の理想的存在の女性になっていた。
その頃から”時尼”が現れるのも年に一度のサイクルではなく、2〜3週間に一度、私が会いたいと思うタイミングで現れるようになった。
大学生になった時、とうとう私は長年疑問だった「時尼はどうして会うたびに若返るのか」を彼女に聞く。
時尼は、「私は、そときびとだから……。」と答える。
そして二人はお互いに愛していること確認し合った。
二十歳の誕生日
私の二十歳の誕生日に、時尼は子供を連れて現れる。
その子が時尼の子供だと聞いて、彼女は結婚しているのかと私は動揺する。
その子の父親はどなたですかと聞く私に、時尼は「この子の父親はあなたです」と答える。
次に時尼に出会ったのは、私は27歳で自分の家を持った時だった。
その時、彼女ははじめて「そときびと」とは何かを教えてくれた。
「そときびと」とは「遡時人」。時を遡る人達のことだった。
私たちは遡時人、未来のある時点で誕生し、過去に逆のぼって成長していく。(中略)
私が生まれたのは、二〇〇一年。今、一九七四年だから、私、肉体年齢は二七歳ということよ
梶尾真治 『時尼に関する覚え書』
と時尼は言う。
時尼はお互いが出会うことは運命だったという。
しかし、真逆の時の流れの中で生きる二人にとって、お互いの愛を確認しあい、一緒に過ごせる時間は限られている。
過去からの時間と未来からの時間が、すれちがう刹那の愛。それが私たちだった。
梶尾真治 『時尼に関する覚え書』
別れと出会い
時は流れて、やがて私にとって時尼との別れの時がくる。
同時にそれは、時尼にとって私との出会いの瞬間でもあった。
読後感
「私」のまだ知らない未来で生まれて年齢を重ねてきた時尼。
時尼は私の未来は知っているけれども、私は時尼の知らない彼女の未来を知っている。
そんな二人が愛し合って同じ時間を生きるってどんな感じだろうと思います。
お互いの未来がわかっているということは、必ず来る「別離の時」もわかっていることになります。
終わりを知りながら生きていくことは「不幸」でしょうか?
それとも「幸福」な面もあるのでしょうか?
あらすじの中で「刹那の愛」を認識する部分を引用しましたが、この「刹那」という言葉がおじさんは好きです。
「刹那」とは仏教の時間の概念で、極めて短い時間を表します。
「刹那に生きる」とは過去でも未来でもなく、まさにこの今を懸命に生きることだと思います。
人は与えられた時間が有限であることを知っているのに、ついどこかで「まだ大丈夫」と考えてしまします。「刹那」を疎かにしてしまいがちなのだと思います。
お互いに逆の時間の流れを生きる二人には、いつまでが二人で過ごすことができる時間なのかがわかっています。
だからこそ、その限られた時間を愛おしむように、お互いを大切にすることができるのではないでしょうか。
それは、その「刹那の愛」は、むしろ不幸ではなく、尊いものだと私は思います。
さて、ここまで読んでいただいたあなたは、どこかで同じような物語があったことを思い出したかもしれません。
数年前、ベストセラーになって映画化された小説に、この物語によく似たものがありました。
当時ネットでもコアなSFファンの話題に登ったので知っている方もあるかもしれません。
だからどうということはない、ちょっとした、余談でした;
余談はともかく、この物語も美しい短編です。未読の方は是非一度手にとってみてください。
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