おじさんの本棚 第5回 『こころ』夏目漱石

読書

おじさんの本棚から紹介する5冊目の本は、

夏目漱石こころです。

2回目で取り上げた、『人間失格』と歴代売上1位を競うという有名作品であり、
教科書にも掲載される、間違いなく日本文学界の名作中の名作です。

かなり前のウィスキーのCMで、
温泉宿で『こころ』の文庫を読みながらグラスのウィスキーを飲む映像があって、
なぜかそれが今でも記憶に残っています。

あらすじ

先生と私

暑中休暇を利用して、休暇中海水浴に行っている友達に誘われ、私も鎌倉に行くことになった。

しかし、その友達は、私が着いて三日としないうちに国元に呼びもどされてしまう。

学校の再開までまだ日にちがあるので、一人残った私は毎日海に入りに出かけていた。

そんなある日、海岸の掛茶屋(今でいう海の家でしょうか?)で「先生」と出会う。

「先生」のことがなぜか気になった私は、それから毎日海岸で「先生」を観察する。

やがて、「先生」と会話する機会を得ると、私は次第に「先生」と懇意になっていく。

私は、「先生」と懇意になったつもりでいたが、「先生」には何か人を遠ざけるような雰囲気が漂っていた。

東京に帰ってからも「先生」の家を度々訪ねるようになるが、ある日、先生の不在の理由が毎月の墓参りであることを知る。

「先生」はなぜかその墓参りについては、話したがらないようだが、それが私は気になって仕方がない。

「先生」の奥さんとの仲も一見円満のように見えるが、そこにも何か冷たいものを感じてしまう。

ある日、私が父親が持病持ちで今後が不安であることを告げると、先生は父親が亡くなる前に財産分与について明確にしておくほうが良いと助言をくれた。

ただ、その会話の中で先生が珍しく興奮するのを見て、私は軽い違和感を覚える。

先生は過去に何があったのか、それはいずれ時が来たら話しますと言い、その場でそのことには深く触れなかった。

両親と私

やがて、私は無事大学を卒業する。

父の容体も気になるため、そのまま帰省して実家で過ごしていた。

そんな中、明治天皇の崩御の知らせが入る。

当時の人々にとって、天皇が亡くなるいうことは一大事であった。

さらには、明治天皇に仕えていた「乃木希典」大将までも殉死を選んだことは人々に動揺を与えた。

そのような世の中の動きと、明治という時代の終焉とを、私の父は自身の余命と重ねていく。

私の父の具合がいよいよ芳しくなくなる中、先生からとても長文の手紙が届く。

私はその内容が気になって仕方がないが、父の容体も気を許せる状況ではなため、落ち着いてその手紙を読むことができないでいた。

内容をちゃんと読む時間もないので、取り急ぎ最後の頁まで順に手紙を開けていくと、
この手紙が読まれる頃には先生はもう生きていないだろうと記されていた。

先生の消息が気になって仕方ない私は、とうとう兄宛の書き置きを残して東京に立ってしまう。

先生と遺書

先生の身を案じて、急遽東京に向かう列車の中で、私は先生の手紙を最初から読み直した。

それは、先生の過去を告白する「遺書」であった。

先生は、10代の終わり頃に両親を亡くした。

亡くなる前の母の願いで、先生の今後と両親が残した財産管理を叔父が任させる。

しかし、叔父はその財産を自身の事業の補填や、私欲のために着服していたことを先生は後に知ることになる。

全くの善人であると信じて、むしろ感謝していた叔父に欺かれたことで、先生は人間不信になっていく。

叔父の家族も周りの人々もことごとく信じられなくなってしまった。

以前、先生が私に「普通のものが金を見て急に悪人になる例として」あげようとしていたのがこの叔父のことだった。

残りの財産を現金化して(元々相続したものよりもかなり減ってしまっていたようだ)、
東京で一人で生きていくことを先生は決意する。

借家を探しているとふとしたきっかけで、軍人遺族の未亡人と娘が営む「素人下宿」を紹介される。

早速向かったその下宿で未亡人(奥さん)に快く受け入れてもらい、そこに住むことになった。

その下宿で暮らすうちに、先生はそこの娘を段々異性として意識するようになる。

娘への好意は日に日に増していき、いつかは奥さんに娘と一緒になることを申し出ようかと考えるようになっていた。

そんな矢先、同郷の友人Kが「医者になって後を継いでほしい」という養家の意向に背いて勘当されてしまう。

収入源も住む場所もなくし、心も病み始めたKに対して、先生は自分の下宿に一緒に住むように取り計らうことにした。

Kはそこでの暮らしの中で、次第に心の健康を取り戻していき、先生もそれに安心していた。

ところがやがてKは下宿の娘に対して好意を抱くようになり、その胸中を先生に告げる。

そのことには薄々感づいており、嫉妬心が芽生えかけていた先生はその告白に狼狽する。

そして、自分も娘が好きであるということはKには告げず、奥さんから娘との結婚の許しを得てしまう。

そのことを後から知ったKは、先生の「裏切り」を責めることもせず、失望の末自死を選んでしまう。

先生は、自身の欺きによって、Kを自死に追いやってしまったことを一生後悔し続ける。

そして、明治という時代の終焉にあわせ、自らも死を選ぶことになった。

ケン少年の読後感

おじさんの時代では「こころ」は中学3年の教科書に載っていたと思います。
(記憶違いでしたらすみません;)

今では高校2年くらいが多数派なんでしょうか?

教科書に掲載できるのはほんの一部なので、気になって全部読んでみたいなと思ったのを覚えています。

夏休みに読んだ記憶があるので、中学3年の夏休みだったのかな?

高校の夏休みは部活のバスケットで毎日死んでいて、本を読む余裕はなかったと思うので(汗)。

当時のケン少年の読後感は、先生の自責の念が強すぎではないかと思っていました。

自分自身が叔父から裏切られ、人間不信に陥っていたのに、その自分があろうことか友人を欺くようなことをしてしまったわけですから、自分で自分が嫌になる気持ちもわかります。

先生は、叔父の裏切りをさして、善人が悪人に変わるきっかけは「金」だと「私」に言いました。

また別の場面では、「しかし君、恋は罪悪ですよ。」とも言っています。

この作品を読み終えたケン少年には「恋は罪悪」とは、先生が「恋」のために友人を欺いて死に追いやったことを悔いている言葉に思えました。

確かに、友人に黙って裏でお嬢さんとの結婚を取り付けてしまったことは、先生が嫌悪した「悪人」の所業かもしれません。

しかし、自分のお嬢さんへの想いをKに伝えられなかったのは、せっかく心の健康を取り戻してきた彼に言い出しにくかったという面もあったのではないでしょうか。

お嬢さんが他人の手に渡るのが嫌で、一瞬魔がさしたのかもしませんが、仕方のなかったことかもしれません。

その後先生が一生後悔して、心を閉ざして生きるようなことはKも望んではいなかったのではないでしょうか?

『こころ』を読んだケン少年はそんなふうに感じていました。

ケンおじさんの読後感

この『こころ』という作品は、なんと言っても日本文学の最高傑作の一つだと思います。

その作品を取り上げるのに、勘違いとかあってはいけないと思い「本棚」で紹介するために再読しました。

やはり、小説はその読んだ時の自分の状態のよって捉え方が変わるものですね。

今回は、ケン少年の読後感とは、違った面で感じ取ったおじさんの読後感も追加します。

先生はKに対する自身の「裏切り行為」について自責の念を持ち続けます。

先生自身の倫理観の問題なので、それは致し方ないものだと思います。

確かに、私が受け取った、遺書がわりの長い手紙の中で語られる先生のこころの動きには、恋の熱病に浮かされた「罪悪」の意思が見え隠れします。

特に、

私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。」私は二度同じことばを繰り返しました。

夏目漱石 『こころ』

恋は罪悪」だと先生は言いました。

自身の「恋」を有利に運ぶために発現された「利己心」は先生を「罪悪」の淵に沈めてしまったのです。

自分でも、あれほど憎んだ叔父と同じレベルに落ちてしまったことは耐え難い自己嫌悪を生んだでしょう。

世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

夏目漱石 『こころ』

そう、先生は自分を責めます。

Kが自殺した後、お嬢さんと結婚することでも、先生が「自身にかけた呪い」は解けることはありません。

いつもKの死が先生につきまとっています。

ついには、Kの自死の原因は、ただお嬢さんへの失恋に失望しただけではなく、

私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。(中略)私もKが歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横切り始めたからです。

夏目漱石 『こころ』

と考えるようになります。

先生は、自身の死に場所、死に時を考えるようになったのだと思います。

しかし、先生はKの死の影に怯えながら、自身を責めながらでも、
友人を欺いてまで一緒になったお嬢さん(奥さん)を幸せにする義務があったのではないかと思います。

人間不信(多分自分自身へも)と自責の念で、「厚い殻」を閉ざしてしまい、
奥さんに「私に悪いところがあるなら遠慮なくいって下さい」と言わせるほど不安を与えてしまっています。

たとえ、Kへの罪への意識で押しつぶされそうでも、自分の閉ざされた「世界」に奥さんを巻き込むべきではなかったと思うのです。

自分自身を責めるなら責めればいい。他人に不信感を持っても仕方がない。

けれど、奥さんには何も心配をかけない「快活な自分」を一生かけて演じる覚悟を持つべきだったのではないかと。

それが先生にとっての、「もう一つの選択肢」ではなかっただろうかと思います。

そして、自身が選んだ生き方の是非を「明治」の次の時代を生きる若者に考えて欲しかったのではとも思いました。

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