老後不安と向き合う Part3:「孤独」と「孤高」

第二の人生

老後不安の三つ目の課題は「孤独への不安」です。

定年退職後に会社での人間関係がなくなることで、孤立してしまうことを心配する声をよく聞きます。

特に仕事人間で、会社以外で社会とのつながりがほぼ無い人は心配だといわれます。

では、会社での人間関係がなくなることって本当に憂慮すべきことなんでしょうか?

孤立しないために、無理して社外の人々との交流を始めなくてはならないのでしょうか?

そもそも、「ひとり」ってそんなに悪いものでしょうか?

今回は、「ひとり」=「他者との人間関係に頼らない」ということをあなたと一緒に考えてみたいと思います。

「白鳥」と「ジョナサン」

白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

若山牧水

孤独」というと、なぜか若山牧水のこの短歌が思い浮かびます。
確か教科書に載っていたものだったと思いますが、定かではありません。

今、こうしてみると、なんともセンチメンタルな歌です。
牧水は、このうたを読んだ時、何か孤独を抱えていたのでしょうか?

何か他者との隔たりを感じながらも、他の「色」に染まりたくない自分を「白鳥」に投影して、
「白鳥はかなしからずや」と読んでいるように私には感じられます。

それは、うらを返せば「私はこんなに孤独なのに」と嘆息をもらしているようにも思えるからです。

けれど、当の「白鳥」は「孤独」なんて感じていないでしょうし。
そこにあるのは、何ものにも染まらない「自由だと私は思います。

同じ、海と空を背景に飛ぶ鳥の物語に、『かもめのジョナサン』があります。

これも私の好きな物語の一つですが、「ジョナサン」も「孤独」ではありません。

群れから離れて、ひとりで鳥としての飛行の「限界突破」に挑み続けるジョナサンは、
とうとう群れから追い出されてしまいます。その時の彼の心情は、

ジョナサンは、その日からずっと、残された生涯をひとりで過ごすこととなった。
だが、彼は流刑の場所、<遥かなる崖>にとどまらずに、さらにずっと遠くまで飛んでいった。
彼のただひとつの悲しみは、孤独ではなく、輝かしい飛行への道が目前にひろがっているのに、そのことを仲間たちが信じようとしなかったことだった。

かもめのジョナサン リチャード・バック 五木寛之訳 新潮文庫

というように、「残された生涯をひとりで過ごすことになった孤独」を悲しんだりはしません。

それよりも、自分が「限界突破」を繰り返し見つけ出そうとしている可能性を仲間たちが理解しようとしなかったことが悲しいのです。

ジョナサンは自身の理想のために「孤高」に生きることを選択しました。

無理に他者との関係を求めない = 自由に生きる

私は、会社から離れて人との関わりが減ったとしても、それを「孤独」だとは思いません。

私だけの自由な時間を得たと考えます。
だから、それは少しも悲観的に捉える必要はないと思えるのです。

昔、小学校に上がる前「一年生になったら友達100人作るんだ!」という歌をよく歌いました。

そうして「友達が多いこと」がとても重要なことのように刷り込む風潮があると思います。

暦が一巡する年を迎えようとする今、私はこの風潮に異論を唱えます。

私の声を聞いてくれる、私の言葉を受け取ってくれる、
そんな人が一人でもいてくれれば、私には充分です。

たとえひとりになったとしても、自由に生きることを、私は選びます。

あなたも、「孤独」だなんて怖がらず、せっかくの「自由」を大いに楽しみませんか。

そして、「この先に訪れるかもしれない『孤独』を不安に思う」よりも、
今、この瞬間を自分なりに精一杯生きることを大切にしようではありませんか。

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